「天城の寒天」製造の大釜発見 物証確認は初(伊豆新聞より)

「天城の寒天」製造の大釜発見 物証確認は初

 河津町梨本の旧下田街道に歌手・石川さゆりさんの「天城越え」に登場する寒天橋がある。天城山中腹の同橋近くで今から140年ほど前の明治時代初めに寒天製造が行われ、その名残として「寒天」の名が地名などと共に残るが、同所の寒天製造工場で材料のテングサを煮るために使ったとされる大釜が麓の同町大鍋の旧家で見つかった。天城の寒天製造に関し、物証確認は初めてで、新たな事実、歴史背景も解明された。

 天城山での寒天製造に関し、小田原短期大・食物栄養学科長の中村弘行教授(64)は現地調査はじめ、国立国会図書館や静岡県立中央図書館など1年ほどにわたる調査・研究の中で各種事実を確認した。大釜は今月、同町梨本の地元史に詳しい稲葉修三郎さん(91)に中村教授が取材した際、稲葉さんが昔の記憶をたどって再確認し、現存することが分かった。

 稲葉修三郎さんは「伝承」と前置きした上で「明治時代後半と昭和初めに上河津村長を2期務めた地元名士の稲葉伊右衛門さん宅は、高台に家があって水利が悪く、寒天製造を終了して不用となった大釜を水がめ用として譲り受けた。明治7(1874)年生まれの私の祖母からも聞いており、寒天の製造工場があった山中から4人が、てんびん棒で担ぎ運んだようだ」という。

 伊右衛門氏の孫・稲葉穎(ひで)子さん(72)は「10年前に亡くなった父・茂(88歳で没)から、寒天製造に使った釜との話は聞いていた。父は釜のさび止めで食用油を時々塗っていた」と話した。

 さきごろ中村教授、稲葉修三郎さんが確認したところ、現在も水がめとして使っていた。鉄製で直径約130センチ、深さ約100センチ。釜を火に掛ける際のつばに当たる部分は、腐食し損傷が激しく補修跡も見られる。全体にさびも目立つ。

 中村教授は「明治期に寒天製造が行われた兵庫県西宮市の山口町郷土資料館に残る大釜のホームページ掲載写真と河津町の大釜はほぼ同じような形をしている。六甲山麓では副業で寒天製造をし、寒天橋という橋も残る。夏休みに現地を訪ね、大釜と共に調べてきたい」という。

■勧業博で2度褒状 中村教授、殖産興業で成果も短命

 中村教授によると、テングサの一大産地だった下田・白浜などの人々や、韮山に伊豆国生産会社を設立した函南町出身の仁田常種(1822~98年)は、県外にテングサを売るだけでなく、寒天を地元で作れないか思案し、寒暖差のある天城山での製造を思い立ったという。

 1874(明治7)年以降、官林の借用や寒天製造工場増築願いを県や国に提出した。大蔵省に工場整備費用などとして1万円の借り入れ願いもし、79(明治12)年まで官林を借り受ける許可を得た。中村教授は都立中央図書館で「明治前期産業発達史資料」を調べる中で、第1回と2回の内国勧業博覧会に天城の寒天が出品され、褒状を受けた事実をつかんだ。

 寒天は京都伏見が発祥で、江戸後期に摂津、丹波、信州・諏訪に広まった。その背景には国を挙げて寒天を対清貿易の重要な輸出品にしようとする動きがあった。明治初めには明治政府の殖産興業の影響もあって全国に広まった。天城の製造もその一つだが、工場は開始からわずか5、6年で廃止になったという。

 中村教授は「大久保利通による殖産興業(民間産業重視)で大きな成果を挙げたものの、利通暗殺後、軍事工業重視への転換などにより短期に終わったのではないか」と分析する。

 1941(昭和16)年に帝室林野局河津出張所に就職し、寒天製造工場跡に設けられた寒天伐木事務所に勤務した稲葉修三郎さんの証言も得て、往時の寒天製造工場跡の様子なども確認した。

 ■「天城の寒天」31日から連載

 天城山での寒天製造の歴史を中村弘行教授が調査、執筆した「天城の寒天」は、31日から毎週日曜日、本紙文化面に連載する。

 【写説】明治初期に寒天製造に使われたとみられる大釜を調べる中村教授(奥)と稲葉さん。さびで劣化、金具による補修跡もみられる=河津町大鍋

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栗原 康浩
ところてんの伊豆河童 株式会社栗原商店の代表取締役。 1869(明治2)年から続く、ところてんやあんみつの製造販売を行う会社の4代目。 当社の天草(てんぐさ)は、硬めの東伊豆産と柔らかめの西伊豆のブレンドした独特の商品。粘りとコシが強く、風味よくしっかりとした食感が特徴。